第1章: ベクトル空間の基礎
公理的定義と具体例
このページの目標
「ベクトル」は矢印だけではない。公理を満たすものすべてがベクトルである。多項式、関数、行列など、様々なものがベクトル空間を形成することを理解する。
1. なぜ抽象化が必要か
1.1 矢印だけでは不十分
高校数学では「ベクトル = 矢印」と習う。しかし:
- 多項式 $p(x) = 2x^2 + 3x + 1$ と $q(x) = x^2 - x$ を足すと?
- 関数 $f(x) = \sin x$ を2倍すると?
- 行列 $A$ と $B$ の和は?
これらも「足し算」と「定数倍」ができる。矢印と同じ構造を持っている!
1.2 共通の構造を抽出
異なる対象に共通する「足し算とスカラー倍の規則」を抽出したものがベクトル空間の概念である。
一度公理を満たすことを確認すれば、$\mathbb{R}^n$ で成り立つ定理がすべて適用できる!
2. ベクトル空間の公理
2.1 定義
定義:集合 $V$ が体 $\mathbb{F}$(通常は $\mathbb{R}$ または $\mathbb{C}$)上のベクトル空間であるとは、以下の公理を満たす「加法」と「スカラー倍」が定義されていること。
2.2 加法に関する公理(4つ)
任意の $\boldsymbol{u}, \boldsymbol{v}, \boldsymbol{w} \in V$ に対して:
- 結合律:$(\boldsymbol{u} + \boldsymbol{v}) + \boldsymbol{w} = \boldsymbol{u} + (\boldsymbol{v} + \boldsymbol{w})$
- 交換律:$\boldsymbol{u} + \boldsymbol{v} = \boldsymbol{v} + \boldsymbol{u}$
- 零ベクトルの存在:$\boldsymbol{0} \in V$ が存在して $\boldsymbol{v} + \boldsymbol{0} = \boldsymbol{v}$
- 逆元の存在:各 $\boldsymbol{v}$ に対して $-\boldsymbol{v} \in V$ が存在して $\boldsymbol{v} + (-\boldsymbol{v}) = \boldsymbol{0}$
2.3 スカラー倍に関する公理(4つ)
任意の $\boldsymbol{u}, \boldsymbol{v} \in V$ と $a, b \in \mathbb{F}$ に対して:
- 分配律(ベクトル):$a(\boldsymbol{u} + \boldsymbol{v}) = a\boldsymbol{u} + a\boldsymbol{v}$
- 分配律(スカラー):$(a + b)\boldsymbol{v} = a\boldsymbol{v} + b\boldsymbol{v}$
- 結合律:$(ab)\boldsymbol{v} = a(b\boldsymbol{v})$
- 単位元:$1 \cdot \boldsymbol{v} = \boldsymbol{v}$
2.4 公理の意味
これら8つの公理は、「$\mathbb{R}^n$ で当たり前に成り立つ計算規則」を抽象化したもの。公理を満たす集合なら、$\mathbb{R}^n$ と同じ方法で議論できる。
3. ベクトル空間の具体例
3.1 $\mathbb{R}^n$(数ベクトル空間)
最も基本的な例。$n$ 個の実数の組:
$$\mathbb{R}^n = \left\{ \begin{pmatrix} x_1 \\ x_2 \\ \vdots \\ x_n \end{pmatrix} \,\middle|\, x_i \in \mathbb{R} \right\}$$通常の成分ごとの加法とスカラー倍で、8つの公理を満たす。
3.2 多項式空間 $P_n$
次数が $n$ 以下の多項式全体:
$$P_n = \{a_0 + a_1 x + a_2 x^2 + \cdots + a_n x^n \mid a_i \in \mathbb{R}\}$$多項式の和とスカラー倍で公理を満たす。
例:$p(x) = 2x^2 + 3x + 1$, $q(x) = x^2 - x$ のとき
$p + q = 3x^2 + 2x + 1$, $\quad 2p = 4x^2 + 6x + 2$
零ベクトル:$0$(零多項式)
次元:$\dim(P_n) = n + 1$(基底:$1, x, x^2, \ldots, x^n$)
3.3 行列空間 $M_{m \times n}$
$m \times n$ 行列全体:
$$M_{m \times n} = \{A \mid A \text{ は } m \times n \text{ 行列}\}$$行列の和とスカラー倍で公理を満たす。
次元:$\dim(M_{m \times n}) = mn$
3.4 関数空間
$[0, 1]$ 上の連続関数全体:
$$C[0, 1] = \{f: [0, 1] \to \mathbb{R} \mid f \text{ は連続}\}$$関数の和とスカラー倍(各点で)で公理を満たす。
零ベクトル:$f(x) = 0$(零関数)
次元:無限次元!(有限個の関数では張れない)
3.5 解空間
斉次線形方程式 $A\boldsymbol{x} = \boldsymbol{0}$ の解全体:
$$\ker(A) = \{\boldsymbol{x} \in \mathbb{R}^n \mid A\boldsymbol{x} = \boldsymbol{0}\}$$これは $\mathbb{R}^n$ の部分空間である。
4. 部分空間
4.1 定義
定義:ベクトル空間 $V$ の部分集合 $W$ が部分空間であるとは:
- $\boldsymbol{0} \in W$(零ベクトルを含む)
- $\boldsymbol{u}, \boldsymbol{v} \in W \Rightarrow \boldsymbol{u} + \boldsymbol{v} \in W$(加法で閉じている)
- $\boldsymbol{v} \in W, a \in \mathbb{F} \Rightarrow a\boldsymbol{v} \in W$(スカラー倍で閉じている)
4.2 部分空間の例
- $\mathbb{R}^3$ の中の原点を通る平面
- $\mathbb{R}^3$ の中の原点を通る直線
- 対角行列全体($M_{n \times n}$ の部分空間)
- 偶関数全体($C[-1, 1]$ の部分空間)
4.3 部分空間でない例
- 原点を通らない平面(零ベクトルを含まない)
- 単位円周上の点(加法で閉じていない)
5. 基底と次元
5.1 線形独立
ベクトル $\boldsymbol{v}_1, \ldots, \boldsymbol{v}_k$ が線形独立であるとは:
$$c_1\boldsymbol{v}_1 + c_2\boldsymbol{v}_2 + \cdots + c_k\boldsymbol{v}_k = \boldsymbol{0} \quad \Rightarrow \quad c_1 = c_2 = \cdots = c_k = 0$$5.2 基底
定義:ベクトル空間 $V$ の基底(basis)とは、次の 2 条件をともに満たすベクトルの組 $\{\boldsymbol{e}_1, \ldots, \boldsymbol{e}_n\}$ のこと:
- 線形独立 — どの $\boldsymbol{e}_i$ も他の組み合わせで作れない(無駄がない)
- $V$ を生成する(張る) — $V$ の任意のベクトルが $\boldsymbol{e}_1, \ldots, \boldsymbol{e}_n$ の線形結合として表せる(過不足なく届く)
直感的には「空間全体をぴったり覆う最小限の道具一式」。少なすぎるとカバーできず、多すぎると無駄(線形従属)が出る。
基底になる / ならない例
| ベクトルの組 | 線形独立? | $\mathbb{R}^2$ を張る? | 基底? |
|---|---|---|---|
| $\{(1,0), (0,1)\}$ — 標準基底 | ○ | ○ | はい |
| $\{(1,0), (1,1)\}$ | ○ | ○ | はい(標準基底以外も基底になりうる) |
| $\{(1,0)\}$ | ○ | ✗(y 方向に届かない) | いいえ(少なすぎ) |
| $\{(1,0), (2,0)\}$ | ✗(同じ直線上) | ✗ | いいえ |
| $\{(1,0), (0,1), (1,1)\}$ | ✗(3 本目は余計) | ○ | いいえ(多すぎ) |
様々なベクトル空間での基底
- $\mathbb{R}^n$:標準基底 $\{\boldsymbol{e}_1, \ldots, \boldsymbol{e}_n\}$($\boldsymbol{e}_i$ は第 $i$ 成分のみ 1、他は 0)— $n$ 個
- $P_n$($n$ 次以下の多項式):$\{1, x, x^2, \ldots, x^n\}$ — $n+1$ 個
- $M_{m \times n}$($m \times n$ 行列):$\{E_{ij}\}$($(i, j)$ 成分のみ 1、他は 0)— $mn$ 個
- $C[0, 1]$(連続関数):有限個の基底を持たない(無限次元)
注意:基底は一意ではない — 同じ空間に対して複数の基底が存在する。例えば $\mathbb{R}^2$ では $\{(1,0), (0,1)\}$ も $\{(1,1), (1,-1)\}$ も $\{(3,1), (5,2)\}$ もすべて基底。どれを選ぶかは問題に応じて使い分ける。
5.3 次元
基底の個数を $V$ の次元 $\dim(V)$ という。
重要な定理
有限次元ベクトル空間の基底の個数は、基底の取り方によらず一定である。
5.4 具体例
| ベクトル空間 | 標準基底 | 次元 |
|---|---|---|
| $\mathbb{R}^n$ | $\boldsymbol{e}_1, \ldots, \boldsymbol{e}_n$ | $n$ |
| $P_n$ | $1, x, x^2, \ldots, x^n$ | $n + 1$ |
| $M_{m \times n}$ | $E_{ij}$($(i,j)$ 成分だけ 1) | $mn$ |
| $C[0,1]$ | なし(無限次元) | $\infty$ |
6. なぜ抽象化が有用か
6.1 定理の再利用
一度証明した定理は、すべてのベクトル空間に適用できる:
- $n$ 次元空間には $n$ 個の基底が必要
- $n+1$ 個のベクトルは必ず線形従属
- 部分空間の次元は全体の次元以下
6.2 異なる分野の統一
- 微分方程式:解空間はベクトル空間
- フーリエ解析:関数を「ベクトル」として扱う
- 量子力学:状態ベクトル(波動関数)は無限次元ベクトル空間の元
6.3 具体例:微分方程式
$y'' + y = 0$ の解全体は2次元ベクトル空間で、基底は $\sin x$ と $\cos x$。
一般解 $y = c_1 \sin x + c_2 \cos x$ は「基底の線形結合」という標準的な形で書ける。
7. まとめ
本ページのポイント
- ベクトル空間:8つの公理を満たす集合
- 例:$\mathbb{R}^n$、多項式、行列、関数
- 部分空間:加法とスカラー倍で閉じた部分集合
- 次元:基底の個数(基底の取り方によらず一定)
- 抽象化の利点:異なる対象を統一的に扱える