電子楽器

本技術ノートは装置 (製品) の系譜ではなく、楽器音をどのように数学的に表すかの系譜を時代ごとにまとめたものである。 正弦波の和として近似する加法合成、線形系の出力として近似する減算合成、 正弦波の周波数変調で近似する FM 合成などである。

全体像

まずこの 1 枚で、どの数学がどの楽器になったかを通しで見渡せる。

読む順序

電子楽器のノートを読む順序 総論から始め、合成の係数を誰が決めるか (人手 から 分析、分析から学習) の順に章が並ぶことを示す図。各段階に属する章の一覧と、全 10 章のレベル構成を併記する 総論 系譜の全体像 人が決める 耳で係数を選ぶ 分析が決める 測って推定する 学習が決める 勾配で推定する 総論: 電子楽器の歴史 — 音の数学的表現とその実装の対応 人が決める: 加法合成、ヘテロダイン、減算合成、標本化定理、FM 合成 分析が決める: 分析合成、粒状合成、物理モデリング (物理定数を測る) 学習が決める: 微分可能合成 全 10 章は中級 5 本・上級 5 本で、入門・初級にあたる章は置いていない 各時代は、前の表現で高価・制御困難だったものを別の数学で扱えるようにしてきた
図 1: 章の並びは難易度ではなく合成の係数を誰が決めるかで決まっている。人手 → 分析 → 学習という順である。標本化定理だけは合成法ではなく、以降すべての土台となる表現基盤の転換にあたる。

係数を人が与える時代

合成の式に入る係数を、設計者や演奏者が耳で決めていた時期である。表現が変わるたびに、決めるべき係数の数と意味が変わっていく。

合成

加法合成 — Fourier 級数を機械にする

$x(t)=\sum_k a_k\cos(k\omega_0 t+\phi_k)$ を設計図として読む。鋸歯波の係数 $a_k=1/k$ を積分で導き、有限打ち切りの帰結である Gibbs 現象の行き過ぎ量 $\frac1\pi\mathrm{Si}(\pi)-\frac12$ を導出する。Telharmonium のトーンホイール、Michelson の 80 素子調和解析器と 1898 年の Nature 論争、ハモンドオルガンのドローバー、720 本の正弦波を光学的に足すソ連の ANS。

1822 / 1897 / 1935 / 1958
原理

ヘテロダイン — 非線形性だけが新しい周波数を作る

線形時不変系が新しい周波数を作れないことを固有関数の議論で示し、積和公式による周波数変換を導く。テルミンで静電容量の $10^{-4}$ の変化が数オクターブの音程になる感度を、差分の微分から計算する。

1920
合成

減算合成 — source–filter モデルと極の配置

部分音を 1 本ずつ指定する代わりに、広帯域の励振 $E$ をフィルタ $H$ で削って $Y(z)=H(z)E(z)$ とし、スペクトル包絡の形だけを近似する。4 次ラダーフィルタの極を $s=\omega_c(k^{1/4}e^{j(2m+1)\pi/4}-1)$ と閉じた形で解き、$k=4$ でちょうど虚軸に達して自励発振することを示す。1 V/oct の指数則がトランジスタの指数特性と一致する理由。

1939 / 1964
原理

標本化定理 — 音が数列になる

標本化が周波数軸方向の周期化であることを櫛型関数の畳み込みから導き、折り返しがその重なりであることを示す。素朴な鋸歯波が非調和な成分を生む様子を実計算し、帯域制限加算合成と BLEP による対処を述べる。RCA Mark II と紙テープによる制御。

1948 / 1955 / 1957
合成

FM 合成 — Bessel 関数が楽器になった

Jacobi–Anger 展開 $e^{jI\sin\theta}=\sum_n J_n(I)e^{jn\theta}$ を母関数から導出し、側波帯振幅が $J_n(I)$ になることを示す。Carson の帯域幅則、$\sum_n J_n^2=1$ によるパワー保存、負次数の折り返し、そして「逆問題が解けない」という弱点。

1967 / 1983

係数を分析が与える時代

実在の音を測り、その測定値から係数を決める時期である。合成の式そのものは大きく変わらず、係数の出どころが人手から分析へ、さらに学習へ移る。

分析合成

分析合成 — 測ってから作る

STFT、窓と不確定性関係 $\Delta t\,\Delta f\ge 1/(4\pi)$、位相差分から瞬時周波数を得る位相ボコーダ、正弦波軌跡の McAulay–Quatieri 法、決定論的成分と残差に分ける SMS、そして LPC の正規方程式と Levinson–Durbin 法。

1939 / 1966 / 1986 / 1990
表現

粒状合成 — Gabor 原子で時間周波数平面を敷き詰める

Fourier 基底は周波数に局在する一方で時間には局在せず、Dirac のインパルスは時間に局在する一方で周波数には局在しない。その中間として時間と周波数の双方に局在する Gabor 原子を導き、平行移動・変調・尺度変換といった自明な変換を除けば、不確定性の下限を達成するのが Gauss 窓に限られることを示す。音色を確率分布のパラメータとして近似する立場では、近似の基準が「波形が近い」から「統計が同じ」へ移る。

1946 / 1970s / 1990s
合成

物理モデリング — 波動方程式を弾く

波動方程式を張力と線密度から導き、d'Alembert 解の 2 本の進行波が遅延線になることを示す。Karplus–Strong の極が $2z^{L+1}-z-1=0$ の根であることを解き、高い部分音ほど速く減衰する性質が自動的に出ることを実測で確かめる。

1983 / 1987 / 1994
分析合成

微分可能合成 — 係数を学習で決める

自己回帰モデルによる波形生成の代償と、合成器そのものを微分可能な層として書き下す DDSP。マルチスケール STFT 損失の勾配が加法合成の $a_k$ まで到達する経路を追い、120 年前の $\sum a_k\cos(\cdot)$ に戻ってくることを見る。

2016 / 2020

よくある質問 (FAQ)

Q1. 電子楽器のノートはどの順に読むとよいか

総論から始めて章を順に読むのがよい。各章は前章で高価だった点を出発点にしているためである。加法合成は部分音ごとに制御曲線が要る、減算合成は個々の部分音を独立に指定しにくい、FM 合成は目標スペクトルからパラメータを解析的に逆算できない、という具合に、ある章の限界が次の章の動機になっている。特定の方式だけを知りたい場合は、各章は独立して読めるように書いてある。

Q2. このノートは楽器の使い方を扱うのか

扱わない。装置や製品の系譜ではなく、楽器音をどのように数学的に表すかの系譜をまとめたものである。個々の楽器は、その時代に採用された音のモデルの実装物として登場する。操作方法や音作りの手引きではなく、各合成法がどの数学的表現に基づき、何を近似しているかを導出つきで扱う。

Q3. 読むのに必要な数学の前提は何か

Fourier 級数と複素指数関数、線形常微分方程式、そして $z$ 変換または Laplace 変換の初歩があれば大半の章が読める。FM 合成の章では Bessel 関数の母関数を、分析合成の章では Cauchy–Schwarz の不等式を、物理モデリングの章では偏微分方程式の変数変換を使うが、いずれも章の中で導出している。

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